コンパスは月を指す

宇宙旅行を考える駆け出し宇宙工学者。 Twitter: @astro_kuboy

第5回 真空がこわいですか?

 

ぎゅわわーーーん、ぎゅわわわわーーーーん、ぎゅわーーーんんんんん

 

少年は、興奮していた。背骨の芯がゾクゾクと歓喜に打ち震え、その振動が一直線に脳みそまで伝わり共振するのを感じていた。ガシャガシャとできるだけ乱暴に弦をかき鳴らすと、そこにはあのジミヘンの、フルシアンテの、カート・コバーンの、アベフトシの、マーシーの、坂本慎太郎の、吉野寿の魂が現れ、少年の魂に乗り移った。彼が初めて購入したそのマルチエフェクターは変幻自在に音色を変え、8,000円の激安ギターをもレジェンドたちのギターサウンドに変身させてしまう魔法のおもちゃであった。

一通り雑にいじり倒したあと、ようやく少年が説明書を真面目に読み始めるとそこには驚きの事実が書かれていた。

 

「このエフェクターには真空管が搭載されています」

 

よく見るとエフェクターの隙間から小さなガラス瓶のようなものが覗いていた。

え、真空管?真空管ってことは……真空なんだよね?真空ってことは……宇宙?え、宇宙なの?

説明書は続く。

 

「真空管は割れやすいため、強い衝撃等を与えないようご注意ください」

 

え、割れんのこれ?え……?これ真空なんでしょ。宇宙でしょ。割れんの?爆発……?ビッグバン!?……いや真空ってことは逆に割れた瞬間にあらゆるものが吸い込まれるのか……?ブラックホール!?え!?

 

哀れ少年、彼の全おこづかいをはたいて購入した魔法のおもちゃは、今やブラックホール内蔵爆弾へと姿を変えてしまった。なんだか急にこわくなって乱暴に弦をかき鳴らすのをやめると、いつの間にかジミヘンたち御一行もどこかへ帰ってしまったのだった。

 

 

 

 

 

僕が宇宙工学の研究をしていると言うと、結構な確率で

「宇宙、なんとなくこわいんだよね」

と言われる。聞くと理由は様々なのだが、その中には「真空ってなんか得体が知れなくてこわいんだよね……」と言う人が実は結構いる。無の世界、闇の世界、全てを飲み込む世界、なんとなくそんなイメージを抱いているのだろう。

そして何を隠そう、かくいう僕も真空というものをなんとなくこわがっていた人間の一人だ。そう、冒頭の少年とは、ギターかぶれ少年であった高校の頃の僕である。高校生にもなって我ながら情けない勘違いだが、これでも当時は大真面目であった。真空というのはなんだか得体が知れず、こわいものだった。

せっかく宇宙に行ける時代が来ても、「なんとなくこわいから……」と逃げていてはあまりにもったいない。せっかくの「こわい」は「こわいもの見たさ」という好奇心に置き換えて、今回は真空についての正しい知識を得よう。

 

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若き日の哀れな僕

 

 

まずはじめに高校の頃の僕の大きな誤解を解いておくと、宇宙は真空だが真空は宇宙とは限らない。だから真空管の中は宇宙ではない。だからビッグバンも起こらない。まあ当たり前だけどね。でも、これだけ「真空こわい」と思っている人がいるのを見るとやはり真空=宇宙を連想する人が多いのだろう。真空、こわい、宇宙、こわい。ふむふむ、わかるよその気持ち。

 

 

たしかに、人間が真空状態に晒されるのはかなりこわい。爆発はしないまでも、口の中の水分や涙がみるみる沸騰*1したかと思えば、脳は酸欠になってあっという間に気絶するそうだ。やばすぎ。第2回の記事で、全裸で宇宙にでると寒いのか?について書いたが、実際にはおそらく暑い寒いを感じる前に干からびて気絶してしまうに違いない。全裸で宇宙に出た勇気だけは認めることにしよう。

 

 

ただ、実は人間が中に入るのでなければ真空というのはそんなにこわいものではない。

たとえば今あなたの目の前に壊れかけのガスボンベと壊れかけの真空管とついでに壊れかけのレディオがあった場合、真っ先にガスボンベから逃げた方がいい。

ガスボンベは大抵中の圧力が非常に高くなっているので、破裂すると猛スピードで破片が飛んでくる可能性がある。また、中の圧縮されたガスが一気に放出されると体積が何十倍にもなって部屋に充満し、酸欠になる恐れもある

一方壊れかけの真空管はというと、割れた瞬間に周りの空気が少し吸い込まれて終わりだ。猛スピードで破片が飛んでくることはない。また、よほどその部屋が完璧に密閉されていない限り、真空に吸い込まれた分の空気はすぐに外から供給されるので酸欠になることもない。

あと、壊れかけのレディオはさっさと徳永英明のところに持っていけばいい。

 

 

 

 

簡単な計算でもう少し実感を掴もう。

圧力の標準単位はPa(パスカル)という単位だが、あらいぐまみたいであんまりピンと来ないのでここではkgf/cm2という単位を使うことにする。1cm2(1平方センチメートル)に何kgのおもりが乗っている時の圧力ですか?というイメージしやすい単位だ。地上の大気圧はおよそ1 kg/cm2になる。

 

真空管は外からちょうど大気圧(1kg/cm2)で押されている。人間の両手の面積は大体10cm×10cm=100cm2なので、真空管にかかる圧力は体重100kgのお相撲さんに両手を踏まれている時の圧力となる。お相撲さんとのシュールな構図以外は、日常でもまああり得る光景だろう。

 

かたや、新品のガスボンベ*2の中の圧力は大体150 kg/cm2になっている。つまり、体重7,500kgのアフリカゾウ2頭に、片手ずつ踏まれている時の圧力だ。ただ踏まれているだけじゃなくて、全体重かけてきてるからね、2頭同時にまあそれはそれはとんでもない圧力である。ガスボンベが破裂した場合、このダブルエレファントパワーが一瞬で解放されることになる。それが目も当てられない大惨事となることは容易に想像できることだろう。

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お相撲さんが嬉しそうでなにより。

 

 

さてさて、真空はそんなにこわくないよ!と言うつもりが今度はガスボンベがこわくなってしまったかもしれない。不安を煽るのもよくないので今回はこのあたりで終わろう。家庭用のカセットコンロボンベなどはもっと低い圧力になっているし、普通は安全装置も入っているのでまあそんなに怖がらなくても大丈夫だ。真空も、最初に言ったように自分がそこに放り出されるのでなければそれほどこわいものではない。むやみにこわがるのではなく、本当にこわいものは何か?という判断力を持っておくことが大事なのだ。

 

 

*1:沸騰とは圧力と温度の関係で起こるものなので、沸騰しているからといって温度が高いとは限らない。常温であっても気圧が低くなれば沸騰は起こる。

*2:ここで言うガスボンベは工業用窒素など、中に気体だけが入っているボンベのこと。プロパンなどのガスボンベは中に液体も入っており、その蒸気圧に応じた圧力になっている。